仏僧と偉人の歴史
- ■2020/03/02 仏僧と偉人の歴史
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仏僧とは何をしている方なのか。
そう聞かれて即答できる方は少ないと思います。
ここでは、仏僧の歴史について説明していきたいと思います。
まず、仏教が日本に伝わったのは、今から約1,500年前の飛鳥時代と言われています。
日本の宗教はもともと神道でしたので、伝わってきた頃は宗教対立がおこり、戦までおきたそうです。
仏教が庶民の間に広まるまで、しばらく時間がかかりますが、現代のような形になったのは江戸時代の頃といわれています。
時の天下人の徳川家康が寺院諸法度を制定して、士農工商のどの身分の人々もいずれかの寺院に登録するように全国に命じました。
また、幕府は学問を奨励し、各寺院に学寮等を設け寺子屋のもととなりました。
お寺は学校のような役割をもつようになっていきます。そして、歴史の中で様々な偉人の教育係のような役割もしています。
平安時代の偉人では源義経がいます。
義経はまだ牛若丸と名乗っていた幼い頃、父である源義朝が戦に敗れ、共に殺される運命でしたが、出家して僧になることで生きることを許されます。
牛若丸は、京都の鞍馬寺へ預けられそこで遮那王と名を改めます。
この鞍馬寺で学問を学び、後の戦にて活躍をします。
ちなみに、遮那王は鞍馬寺で天狗を相手に体を鍛え武芸を学んだという天狗伝説が今も伝わっています。
もともと、鞍馬寺のある鞍馬山は山岳信仰、山伏による密教も盛んでした。
そのため山の精霊である天狗も鞍馬に住むといわれています。
源義経に仕えた武蔵坊弁慶も、もともとは比叡山の僧でした。幼名は鬼若と呼ばれていましたが、彼は勉学をせず、武術を好んだといわれていますが、乱暴がすぎるがために追放されてしまいます。
その後、自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗り、やがて京で千本の太刀を奪おうと、帯刀の武者と決闘して999本まであつめましたが、五条大橋で通りすがる義経と出会い、その太刀を奪おうと決闘を挑みますが、返り討ちにあったそうです。
義経に降参し、それ以来、家来となって仕えたといいます。
お寺と武士は古くから繋がりがあり、幼少期を寺で過ごし仏僧と師弟関係になる者も少なくありません。
戦国時代の武将の今川義元もその一人です。
今川義元と聞くと良い印象を持つ人はあまりいないのではないでしょうか。
桶狭間の戦いにおいて2万5000の大軍を擁しながらわずか2000の織田信長に敗れ討たれたことがマイナスイメージとなっていると思います。
しかし、今川義元は非常に頭が良く、内政、外交に優れた手腕を振るっていたといいます。
後に天下人となる徳川家康の領地であった三河の国も今川の支配下でした。
幼少期の家康も人質として、過ごしていました。
そんな、今川義元は今川家の五男として生まれます。
4歳の頃仏門に出されます。
戦国時代の頃になると、武将の子供は学問を身に着けるため、寺に入るのが一般的でした。
義元の場合は兄がいたためもともとは跡取りではなかったため寺に入ることになりました。
その後、跡取りであった兄達が亡くなり(暗殺説もありますが、現在では病死、自然死の可能性が高い)家に戻り今川家を継ぐことになります。
跡取りとなった今川義元は太原雪斎という僧侶を家臣にします。
雪斎は義元の仏門における師弟関係にありました。臨済宗の僧侶であり、今川家の軍事、政治において義元を補佐し、義元も雪斎を厚く信頼し、様々なことがらにおいて相談をしたと言われています。
歴史のなかで偉人達を育て、補佐する仏僧は知識人であり、導き手として大きな役割を担っていました。
仏僧は現代の教師の役割をしており、教養、学問、道徳等を教えて同時に仏教を伝えてきました。
皆さんの近くのお寺でも定期的に法話を開いているところがあります。興味を持たれた方は、お話を聞いてみるのもどうでしょう。
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大切な人を思う気持ちを心を込めて形にします。
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